子育てにいそがしいフクロウは、ようやく訪れた浅い眠りから目を覚まし、大探検を終えた子猫はとぼとぼと家路に向かっていた。温泉宿の玄関先には古びた灯明が掲げられ、仲居たちは廊下で冗談を交わしながら、いそいそと盆を運んでいた。下界から電車とバスを数回乗り継いで(途中で引き返したほうが身のためかもしれないと何度も自問しながらも)ようやっと辿りついた旅行者は、森に囲まれた宝石のような浄土湖を見て、ひなびてはいるが情緒たっぷりの宿を見て、疲れきって会話も絶えていた連れ合いの顔が喜びにほころんでいくのを見るのであった。浴衣に丹前姿の老夫婦が、夕闇映える湖畔をゆっくり歩く様子は、JRの駅貼りポスターなら『お二人で、浄土へどうぞ。天国に一番近い温泉』と紹介されたことだろう。
温泉で旅の疲れをとことん癒し、たっぷりの食事を堪能し、ゆったりとした心持ちに和んではいても、もう少し何かあればいいのに…とつい感じてしまうのが、今も昔も旅行者というものである。そんな果てしない欲望を満たしてくれる娯楽施設は、天国に一番近い温泉郷には必要ない、お客様はとっとと布団を被って、さっさとお休み頂くのがよろしかろう。風紀の乱れは心の乱れである。雑事は下界に戻られてから存分に楽しまれても遅くはないのではないか…というのが浄土温泉旅館組合の公式見解であった。
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